ラベル 今村のあゆみ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 今村のあゆみ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年12月6日月曜日

山の講 12月6日(月) 「今村のあゆみ」より 

 かつて新嘗祭の夜、年行事(宮係)が太鼓をたたいて村中を廻り各戸から2~3合の米の寄進を受ける。これに小豆を混ぜて赤飯(うるち米)を炊く。炊きあがると本社拝殿で太鼓を打ち鳴らし、この音を合図に村人が容器を持って赤飯をもらいに来た。これを食べると次の夏は無病息災と言われた。

 夜には崇福寺の住職による神事が行われた。神事が終わると、誰かが暗闇を利用してお供えの神酒、おにぎりなどを持ち去っていく。そのお供えは「狐が持って行く」と言われていて誰が持ち去ってもとがめられることはなかった。

 現在の「山の講」では米集めは行われず、うるち米で炊いた赤飯を振舞うだけである。

 こうした風習を地域の文化習慣としていつまでも残しておきたい。昔、この地は農耕社会であったことを忘れないために。

2021年8月27日金曜日

郷土史〔今村のあゆみ〕より(第6章、第1節 2 忠魂碑)より

 忠魂碑は戦没者の供養のために建てられた碑のことで、大正天皇の即位記念事業として全国的に建立が広まった。

 今村においても大正7年頃、在郷軍人会の間で忠魂碑建立の議が起こり、翌年建設が決まった。予定地は白山比賣神社の西隣で、当時は田んぼだったため大量の土(650㎥)で埋め立てをする必要があった。そのため基礎の土盛りを、組割りの戸数で請け負った。桝塚(イトーヨーカ堂の北あたり)から、組中が総出で、夜を徹して運んだという。

 大正9年4月に竣工し、日露戦争における戦病死者2名の英霊を祀った。その後、太平洋戦争の戦病死者93名の英霊を合祀した。遺族会では毎年2月、忠魂碑前と専超寺と交互において戦没者慰霊祭を行っている。